本当はブログなんて書いている場合じゃないんですよ。
確定申告の準備しなきゃいけないし…。
3月のイベントの資料作らなきゃいけないし…。
それでも私は時々、頭の中に浮かんだ発想がどんどん展開されていって歯止めが利かなくなると一旦出さないと他のことに手がつかなくなる質なので、こうしてブログを書いているのです。
そしてテーマが『YOGAは宗教か哲学か』
人によってはデリケートな上に、誰が読むのだろう?というテーマ。
なお、専門家ほど知識もないのでネットで調べたり私自身が体験してきたりしたものを通して今回も安定の斜めの目線で見ていますが、誰かを傷つけたいわけではないことだけは明記しておきます。
YOGAは宗教なのか
私は常々「YOGAって宗教だから」と口にしていましたが、訂正します。
どうやらYOGAは宗教ではないようです。
フィットネス的なイメージが最近では強いですよね |
YOGAが宗教か否かを決めるためには、“宗教”というものの定義を知らないといけませんが、そもそも宗教の定義というものがないようです(正確にはいろんな人がいろんなことを言っている状態)。
宗教と一言で言っても世界宗教であるキリスト教、仏教、イスラム教のほかにも民族宗教などを入れたらキリがないほどあります。
ここで私の勝手な宗教の定義として「信仰の対象となる神もしくは仏がある(偶像の有無は問わない)」とします。
その点、私の知る限りでYOGAにおいて神のような存在は語られますが、それに対しての信仰はないように思います。
またYOGA自体が国や地域を越えて広まっていることからも、特定の宗教に当てはまらないことにもつながっていると考えられます。
では、YOGAとは何か。
それは哲学であろうと思われます(ここでは一旦ね)。
ちなみにドイツの哲学者であるマルティン・ハイデッガーは哲学を次のように定義しています。
マルティン・ハイデッガー(独 1889年9月26日 - 1976年5月26日) |
『古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することを目指している。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的存在論としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない』
…まぁよくわかりませんが、「自分を知るための学問」だったり「何か物事を定義づけるため学問」みたいなニュアンスで私は捉えています。
YOGAの教えってそれっぽいじゃん。
だからYOGA=哲学でいいじゃん(適当)。
宗教の違いを知るとYOGAが見えてくる
私はイスラム教については詳しくはないですが、キリスト教と仏教については何となく知識があります。
かわいい教会 |
私は宗教の死生観や人生観のようなものに興味があり、一時期調べたことがあるのです。
かなりざっくりしていますが、キリスト教と仏教の違いは以下のような感じです。
キリスト教
良いことも悪いことも神の意志。信じるものは救われる。
仏教
良いことも悪いことも自身の行い(因果応報)。善い行いをすれば極楽へ行ける。
優劣をつけるわけではないですが、ひたすら神を信じ続けるよりも自身の行いと結果を関連づけている方が合理的だとは私は思います。
本当のところ(事実)はわかりませんが、人は信じたいものを信じるので何があっても信じたものがその人にとっての真実になるのでしょう。
ところで仏教のルーツはYOGAにあるので、YOGAにおいても因果応報とか輪廻転生の考え方があるようです。
東寺は京都駅からも近くて好きです |
ん?ということは信仰する神はいないにしても、共通の価値観があるということはYOGAは宗教としての一面を持つのか?
分からなくなってきました…煮え切らないところで次に行きます(大丈夫、最後にはふんわり完結します)。
宗教とは〇〇である
少しまた話題が変わりますが、私の尊敬する方は「宗教とは1つのシステムである」という旨のことを書かれていました。
私からすれば眼から鱗の観点であり、今回の記事を書くきっかけにもなりました。
歴史をふり返ればそれは一目瞭然です。
長崎の大浦天主堂。長崎はいろいろ思い起こされる場所です。 |
日本においては特定の宗教においての信仰が薄い国という印象がありますが、それでも宗教の布教もしくは弾圧によるある種の操作というものは歴代の幕府・政府によって行われてきました。
仏教の浄土宗に至っては「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも死後に極楽浄土に行けるんですよ。
南無南無。 |
今よりも死が体感できる状態で身近にあった時代にあれば、そりゃ広まりますよね
こうやって何か特定の宗教や教えのような共通認識や共通の価値観というものは広めてしまえば利用しやすいのです。
「〇〇はした方が良い」「××はしたらダメ」のような共通認識・価値観というものが広まれば、支配者はいとも容易く多くの民を管理できたわけです(あくまで私から見た宗教の一面を述べているにすぎません)。
私は普及した共通認識・価値観という常識にはある種の狂気を感じます。 |
泰平の世では殺人が罪に問われますが、戦乱の世では英雄になるように、絶対的な正義も悪も存在しないと私は思いますが、それでもその時代に合わせた(それも支配者にとって都合の良い)共通認識・価値観の普及というのは便利なのです。
これはどっちも天使。 |
少し脱線しますが、学校の校則も同じようなものですよね。
「髪は染めてはならず黒髪」「襟足の長さは〜」「スカートの長さは〜」とか。
私が中学時代、冬にウインドブレーカーを着ていたら「授業中の着用は禁止」ということで校則に厳しい先生の授業中はよく脱がされました。
今でもあの先生の名前と顔は覚えてます。 |
あれ、今になっても納得できませんし、納得のいく理由を説明されたこともありません(だから納得してないんですけど)。
ユニクロのモコモコのフリースを着ているような先生に理由を聞いても返ってくるのは「校則であり、校則は学生のためにあるから教師は良い」とか「頭髪や服装の乱れは風紀の乱れを招く」といったものでした。
それさぁ、論理が破綻してない?
確かに世間一般で言うところの不良という方々は校則から外れたような頭髪や服装をしがちですが、そういう傾向があるだけでそうとは限りませんよね。
一見怖そうな頭髪・服装をしていてもいい人っていっぱいいるし、スーツをビシッと着こなしていかにも真面目そうでも殺人を何件も犯すようなサイコパスだっています。
僕だって周りから人がいなくなるような服を着ます。サイコパスだけど(説得力なし)。 |
見た目と風紀とか道徳観念のようなものは相関関係があるのかもしれませんが、少なくとも私が納得する理由にはならなかったわけです。
もし中学生当時の私に会ったら言いたいですね。
「君が今、納得いっていない物事は社会が管理しやすいように作ったルールやシステムに原因があるんだ。いくら大人に聞いたって君が納得できる答えは返ってこないよ」って。
とは言え、ここまでの文章では宗教(や校則)をシステムと捉えて少し悪いように書いてしまいましたが、もちろん現代まで守られてきたり語り継がれていたりするものの中には昔の人たちの善意というものもあるであろうことは忘れてはならないと思います。
いつの世もおそらくほとんどの人が子や孫などの次世代のことを心配するように、善意というものはあると信じたいです。
LOVE & PEACE |
とは言ってもウインドブレーカーの校則は納得いってませんけどね、風邪ひいたし。
このように私は20年くらい前のことを同じ熱量で怒るくらいに粘着質な男です。
はい、次。
YOGAはやっぱり宗教なのか?
何度も書いてますが、どうにも私はYOGAの菜食主義を採用しているところが納得いかないのです(結局ここに戻る)。
以前も記事にしたのですが、安定の長文なので未読の方はお時間のある時にご一読ください。
食事についても触れてます。記事を読む方はタップ! |
YOGAにおいて菜食を推奨する理由は以前の記事に書きましたが、哲学に則ったもの(Ahimsa=非殺生)の他に、どうやら肉食は消化をする際に多くのエネルギー(プラナ)を消費するために修行の邪魔になるから肉食をやめて菜食にするのだそうです。
でもよく考えてほしいのですが、消化・吸収されにくいのって食物繊維ですよね。
大便のほとんどは水分と腸内細菌ですが、消化されなかった食物繊維は便を嵩増しします。
それにゲロって吐いた時って炭水化物が主に出てきませんか?
これは炭水化物の消化は胃ではされなくて小腸・大腸からされるためです。
イメージだけで考えちゃうと勘違いしちゃうかも。 |
汚い話が続いて恐縮ですが、“消化に優しい”というのは、肉食よりも穀物や野菜などの方が噛む回数も多くなる傾向にあって満腹中枢を刺激されて食べる量も減った結果として消化に優しいのではないかと思います。
そしてAsanaを実践すると体を動かす際のエネルギー消費(カロリーの意味で)は減りますし、食事によっても摂取されるカロリーも減るのでどんどん省エネ体質にはなっていきます。
だからより食料が必要なくなる体になっていくんですよね。
細い人が多いのはいろいろなものが複合的に作用した結果でしょう。 |
そうなってくると、現代の先進国ほど確実に食料の危機というものが身近にあった時代においては、当時の支配者・管理者にとって食料がそこまで要らない人たちの“量産”には一定の価値があったんじゃないかと斜めの目線では見えてしまうのです。
もし、この私の妄想と言う名の色眼鏡で見たYOGAと歴史があったのだとしたら、YOGAも哲学ではなく、宗教としての一面もあるように思います。
まとめと関係なさそうで関係ありそうな話
だからと言って私はYOGAが哲学だったとしても宗教だったとしても否定はしませんし、自身の人生を豊かにするものであるならば良いと思っています。
もちろん、哲学自体も宗教自体も否定はしませんし、必要な人もいるでしょう。
人生の質のために用いるかどうか。 |
少し話は脱線しますが、現代はこのように誰もが好き勝手に情報を発信できる世の中です。
昔はテレビやラジオが力を持っていたので、それに出ている政治家や芸能人が権力を持っていました(メディアの場合は製作者かな?)。
もう少し狭い社会で話をすると、家では親が、学校では教師や優等生か不良など、とりあえず分かりやすい権力や力(学力や腕力)を持っている人間が発言権・発信力を持っていました。
今でいう目立たない陰キャの方々は権力の前に黙って自分を押し殺して従わざるをえないところもあったでしょう。
持っている者と持たざる者。 |
しかし今ではYouTubeなどの動画投稿サイトをはじめ、ブログやSNSなどがあり、ただの一般市民が発言権を持っています。
最近はただの一般人だったYouTuberがテレビ出ていますし、逆に芸能人がYouTubeに参加しています(これには双方の思惑があるのでしょうが今回は触れません)。
そして価値観が多様化し、ルールやシステムに従って積み上げてきたものが役に立たないことが起こり得る現代においては「何を成すのか」「何を成したか」に価値が問われるように思います。
そのためには“自分を知ること”がまず必要になり、そのツールとしてYOGAというものがウケて広まっているのではないかと思います。
タイトルと着地点が全く違いますが、とりあえずこれ聴いといてください。
本日の一曲:欅坂46/サイレントマジョリティー
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あ、これは登録してくれると嬉しいんですよ。Majide。 |
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